恋(3)_頼め置かん藤原定家母 頼め置かんたださばかりを契りにて憂き世の中の夢になしてよ 新古今集巻十三、恋歌三の巻軸歌(いちばん最後に置かれた歌)。すでに書きましたように、勅撰集の歌では、各巻の巻頭歌と巻軸歌にはとくに名歌が置かれ、それだけ格の高いものとされました。藤原定家母は、新古今集入撰一首という、決して大歌人とは言えない、それどころか、歌人と言っていいのかどうかもわからない人ですが、その一首だけの作品がいかに優れたものであったかは、この歌が巻十三の巻軸歌となったことを見れば、そして、この歌そのものを見ればわかるはずです。定家母は、その名のとおり、定家の母で俊成の妻。俊成に嫁ぐ前に前夫がおり、藤原隆信という子をもうけたそうです(隆信は似絵―肖像画―の名手で、有名な、教科書に載っている源頼朝像などを描いた人物。歌人としてもすぐれ、新古今集にも数多く入撰しています)。 意味は、後の世(でも夫婦になろうということ)をあてにして、それだけをお約束して、ほかのことはみな、つらいことばかりのこの世のなかのはかない夢とでもお思いください、私もそう思うことにいたします、ということ。出典は『長秋詠藻』といって、俊成の家集(個人歌集)です。家集はいろいろな種類があって、例えば定家の『拾遺愚草』のように、作った歌だけをずらずら並べたものや、勅撰集と同じように内容ごとに分類したものや、さまざまなのですが、なかに編纂者がマメな人だったのか、人から贈られた歌への返歌や、あるいは自分が贈った歌に返歌が来たときは、相手の作品まできちんと記録しているものもあります。この場合は、まさにそういう事情によって残った歌でしょう。『長秋詠藻』を編纂したのは俊成自身ですが、俊成、定家、為家の親子三代はとにかく学者型の性格で、することが非常にマメです。平安時代の主要な物語、日記、歌集の類は、この三代で大半を筆写してしまったくらいで(しかもそれが、すこぶるつきに正確で校訂もかなり考証的。こんな根気の要る仕事をよくやったと思います)、記録することがほんとうに好きな人たちだったんでしょうねえ。 俊成の贈った歌に答えたのがこの歌です。ちなみに、俊成の歌は 藤原俊成 よしさらば後の世とだにと頼み置けつらさにたへぬ身ともこそなれ (そうですか、それならどうか後の世で逢うことをあてにしてください。このようなあなたの冷淡さには、私はとても耐えられずに死んでしまうでしょうから)で、新古今集に定家母の歌といっしょに採られています。『長秋詠藻』には「つれなくのみ見えける女に遣はしける」という詞書きがあります(新古今集では「女に遣はしける」)。俊成の歌も、決して悪くはないのですが、やはり、この、返歌に比べるとやや落ちるように思われます。さすが定家の母親ですねえ。 頼め置かん、というのは、もちろん俊成の歌からとったものです。返歌というのはこのように、相手の歌の一部分を応用して答えるのが、もっとも一般的な作法。当時は仏教思想が貴族社会に浸透していた時代ですから、だれもがごく普通のこととして、輪廻転生を考えていました。この世での行いによって、死んだのちに生まれかわる次の世でどうなるかが決定される、という思想です。親子は現世限り、夫婦は二世、主従は三世の縁とされていて、現世で夫婦であったものは、来世、つまり後の世でも夫婦になると考えられていましたから、こういう歌が詠まれたわけです(江戸時代に心中が流行るのも、この世で恋人どうしなら、後の世では夫婦になれる、というこの発想が定着していたから)。「頼め」は以前も解説しましたが、あてにする、頼りにする、ということ。俊成のほうが、なかなか逢ってくれない(つまり、実事を拒む)女に「そんなに冷たくするなら、もう死んでしまいますから、後の世でお逢いしましょう」と詠み贈ったのを受けて、「それなら後の世を頼みにしておきます」と詠んでいるのです。ここで大切なのは、返歌の作法として、できるだけ相手の言っていることを否定しないという点ですね。恋歌といえども、歌をやりとりするというのは、一種の社交です。ここで、相手の言っていることを全面的に否定して(あるいは否定的に取扱って)、やりこめてしまうのは、社交的精神に反しますし、決していい返歌とは言えない(まれに、「恋しくて死んじゃいそう、なんて、そんなの嘘でしょう。あなたは浮気な方なんだから」という歌もありますが、これは高等テクニック)。「あっそう、じゃ、死んじゃえば」と言ってしまったら、もう、社交も、恋愛もあったもんじゃない。どんなに嫌な相手であっても(ましてやこの場合、俊成はいちどはただならぬ仲になった相手なのですから、好意はあるはず)、相手の気持や言葉を上手に利用して、自分の心を伝えてこそ、返歌の意味があるのです。言ってみれば、歌の贈答は(あるいは手紙のやりとりは)、二首でひとつの世界を作りあげる行為ですから、相手の作品を頭から無視してかかるのは、例えそれがどんな愚作であろうとも、非礼というものなのです。そのあたりの気配りが、この歌は非常にうまいんですね。俊成の歌の世界を上手に生かして、しかも自分の気持をしっかりと詠んでいる。そのうまさたるや俊成をしのぐほどである。 例えば、「さばかりを契りにて」という言い方。これも、もとは、俊成の「後の世とだに頼め置け」から来たものなのでしょうが、後の世と露骨にいわずに、しかも、頼め置かん、という初句を「さ」という指示語で受けているあたりの軽やかさがなんとも言えずいい。さらにいえば、「さばかり」と「後の世とだに」には、ずいぶん言葉の品に差があります。それだけを、という含みのある表現が、歌をふっくらとした余情のあるものにして、優美な印象を与え、幽玄でさえある境地を作っています。この「さばかり」という言葉を目にしたとき、おそらく俊成は「負けた」と思ったのではないでしょうか? それくらいこの表現は滋味にあふれている。決して派手ではないですが、何気ない品があります。「契りにて」にしても、これは、もとの俊成の歌にはない言葉ですね。お約束しましょう、と、この世では逢えないから、来世でまた逢いましょう、と、そう言って、俊成のやぶれかぶれな提案をすっと引きうけてしまっている。俊成の歌は、相手に拾ってもらうための歌ではないのです。「あなたのせいで死んでしまいそうだ。だから来世でお逢いしましょう」などというないようは、ひとりでつぶやくべきものであって、俊成自身もおそらく相手は「そんなことおっしゃって、いつまでもおいで下さらないのはどちらでしょうか」などという、男をいなす歌を返してくると予想していたのではないでしょうか。そこを、この歌は、すっと素直に俊成の歌意を拾って、「私も死にます」というようなことを何気なくいってしまった。まあ、素人の怖い者知らずといえばそれまでなのでしょうが(しかも、当代の大歌人を向うに回していい度胸だ……)、しかし、怪我の功名というべきか、その「素人の怖い者知らず」がみごとに名歌を生んだのです。 たのめおかん、たださばかりをちぎりにて、というこの歌の上の句は、じつにいい。いくらいっても足りないくらいにいい。技巧以上に気品があります。歌としての姿、言葉のたたずまいと、切迫する精神の充実に、俊成の歌を上回るものが秘められていて、しかも、女歌らしいやわらかみ、ほそみ、芯のつよさが感じられます。「さばかり」と決然と言いはなつ、あるいは、言いはなたなければならぬ状況に置かれた女性の、けなげな心の美しさまでが手に取るように言葉のうちから立ちのぼってきます。 それに比較すると下の句はやや平板でしょうか。上の句の内容からの飛躍もなく、ひねりもあまり利いていない。素直な詠み口といえば素直な詠み口と言えるのでしょうが、やはり、専門の歌人ではない素人っぽさがどうしても出てきているようです。憂き世、は、つらいことの多い世のなかということ。 夢の解説は以前にしましたね。そのほのかのことはすべて夢であったとお思い下さい、という意味ですが、ここで大切なのは、この「そのほかのこと」です。「そのほかのこと」って、いったいなんでしょう? 要するに、これ、片恋の歌ではないんですね。俊成とこの女性の間には、過去になにがしかのいきさつがあって、それが「そのほかのこと」なんですね。夢、というのは、平安時代であっても、基本的にいいものとして考えられています。いずれ覚めて、あとかたなくなくなってしまうはかないものであるとしても、決して悪いもの、つまらないものではない。つまり……、その、やっぱり、俊成とこの女の人の間には恋人に相応しい夢のようなできごとがあって、でも、なにかの理由で、女のほうはもうお逢いできない、と言ってきた。驚いて何度か女のもとを訪ねてみるけれども、彼女は頑なに逢おうとはしない。で、俊成のほうは「そんなに冷たくされては死んでしまうばかりです」と俊成が歌を贈れば、女のほうで可哀そうと同情して気持をやわらげてくれるかと思いきや、「この間までのあなたとのことは、どうか夢とでもお思いになって下さって」とやんわりとした別れの決意のような返歌が返ってくる。それが、「夢になしてよ」ということ。俊成は困ってしまったでしょうねえ。 どうして、そんな仲になってまで、この女性は俊成を拒もうとしたのでしょうか? どうも単なる恋愛のかけひきとは思えないようなふしもあります。すべては想像でしかないのですが、女のほうは逢えなくなった理由を「憂き世」というひとことにこめているのですから、もしかすると人の噂がうるさくなってしまったせいかもしれません。平安時代の恋は特に人に知られることを恐れたことは、すでに何度か説明したとおりですが、そのせいで女のほうから「しばらく冷却期間を置きましょう」ということだったのか。あるいは、まだ前夫との関係があるころで、とても俊成とはいっしょにはなれない、と思ったのか。それとも、その両方で、俊成との関係が人の口に上りはじめたので、夫のことを恐れ、世間体を憚って、いっそのこと関係を終らせようとつらい決意をしたのか。まあ、物語のような想像はいくらでもふくらんでゆきますが(勅撰集のなかに贈答歌をそのまま再録しているものがあるのは、こういう物語の断簡としての効果を狙っての意味もあるのでしょう。特に新古今集は、和歌の伝統とともに、物語の伝統をも集大成しようとした貪欲な勅撰集です)、ひとつだけはっきりしているのは、ここで、もう終りにしましょう、と決断を下したのは女性のほうであって、俊成ではない、ということ。 これが、ぼくにはとても心にせまってくるのですね。最初に別れを言いだしたのも女の人のほう。「死んでしまいます」といわれて、「死にましょう」とごく何気なく、すらりと言いきったのも女の人のほう。これからしてみれば、俊成の言う「後の世」など、歌の上っ面だけで、ただの言葉遊びのようにすら見えてしまうほどです。決して強くもなかったし、自立もできてなかったはずの平安時代のある女性が、しかし、絶望的な恋愛のなかにあって、いやらしい気負いも衒いもないままに、切ないもの思いを経て、まだ恋しいはずの恋人を思いきろうと決意する……。その心のはたらきを、想像をまじえながら追体験してゆくとき、愚かで女々しい男という生き物の一員として、女の人というのはなんとつよく、やさしいものであるかと、驚嘆するような尊敬の念を新たにします。その精神のたたずまいの美しさが、技巧では俊成に劣りながら、この歌を巻軸歌に相応しい名歌にしているのではないでしょうか? 作者名が「藤原定家朝臣母」となっている以上、俊成との間に子をなしたことはたしかです。おそらく、波瀾に満ちた恋愛を経て、幸せな結婚生活を送ることができたのではないでしょうか。このような歌を詠んだ女の人には、そういう幸せが用意されていてもいいと思う。 ジャンル別一覧
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